おたく会津若松へ行く~白き虎たちを訪ねて~
もののふ白き虎、東京千秋楽おめでとうございます。絶賛虎ロス中です。
観劇前の夏、このブログに触発されたおたくは勢い余って会津まで役作りならぬ客作りに行ってきました。こういうところだけはガチヲタです。
会津旅行としても、そしてもののふの舞台にふれる意味でもとってもとっても楽しい旅だったので、そして会津の景色と地元の方々の言葉が忘れられないので、ご本人よろしく書き留めておきます。
到着 飯盛山へ
自宅から車で5時間、会津若松市に到着です。当初の予定では市内に駐車して循環バスで回るつもりだったのですが、じゅうぶん小回りが利きそうなのですべて車移動です。
まずはここに挨拶にあがるべきだろう、ということで飯盛山に登ります。例のTシャツで一躍名をはせた大久保商店さんは通りを入ったすぐ左手にあります。おばちゃんが呼び込みをしているのですぐ見つかります。荷物が増えるので帰りに買うとしてひとまず通過。
まずはここに挨拶。
よーーーく見てみると
こんなところに座長ズが。悌次郎は八重の桜にも出てたからね!八重ちゃんの生家・山本家のお隣さんだからね!
偶然か必然か、座長ふたりを見守るような看板。演じ手でこそないものの背筋が伸びる思いです。
「エスカレーターあったけど、歩きたかったから歩いた。」という安西くんのことばがとっても好きなのですが、果たして運動不足の身体でも歩けるものか?と若干不安を覚える石段。
隣を走るエスカレーター(たしか200円くらい)から「歩いて登るのはとっても大変です!」という音声案内が聞こえてきて吹いた。
が、私も歩きたかったので、歩きました。
同行した母とふたりで歩きましたが、見た目ほどの距離もなく難なく登頂。足に負担を抱えた方でなければ徒歩でも十分いけると思います。
年配の観光客やお墓参りに来た地元のおじいちゃんおばあちゃんにはたしかに必要そう。
階段の途中にあるのがここ。
史料や絵が展示されているほか、白虎隊の歴史が詳細に記述されていました。
「一般的な白虎隊悲話」と「会津に伝わる白虎隊の歴史」との違いを、その意図も含めて丁寧に解説されているので、お立ち寄りの際はぜひ奥の絵とその横にある解説文を読んでみてください。
で、どう違うかというと、主に二点。
一つは、「史実との相違点」。
たとえば、白虎隊は全員が自刃して貞吉ひとり生き残った、と描かれることもありますが、実戦に出て飯盛山で自刃したのは「士中二番隊」。たしか白虎隊は五隊ほどの編成で、実際に戦地に赴き命を落としたのは二番隊だけです。しかも二番隊全員が飯盛山で自刃したわけではなく、中には途中で戦死した隊士や後で亡くなった隊士もいたとか。ただ、戦乱でしばらく魂の行き場を失ったままだった白虎隊の少年たちを大切に葬り、歴史を後世に語り継ぐために(ごめんなさい、ちょっとこのへんの意図は記憶があいまいです)、二番隊全員をひとまとめにしている面もあるそうです。このへんの相違点については「そこ違うよ!」と口を酸っぱくして指摘したい、というほどでもないのかな。
もう一つは、「飯盛山でのこと」。
飯盛山から会津の街が燃えているのを目にして、城が落ちたと勘違いして自刃した、というのが一般的な白虎隊の描かれ方。ですが、実際にはそんな簡単な最期ではなかった、ということが、こちらははっきりとした意思をもって記されているように感じました。
二番隊はすなわち二番手チーム、選りすぐりのエリートで構成された選抜隊です。享年15歳前後とはいえ、当時ではもう大人。彼らは教養も立場もある聡明な武士たちです。そんな彼らが自刃したのは、それまでの戦で結果を残せなかったこと、このままでは生きたまま敵軍に見つかるほかはないこと、そうなったらどんなむごい結末を迎えるかは自明であること、様々な事情を鑑みて、相談に相談を重ねたうえで、武士としてけじめをつける手段として自刃を選んだ、というのが会津に伝わる白虎隊の歴史。
正直、その場にいたほとんどの人が命を落としている以上、完璧な「事実」を特定することはできません。だけど、生き残った貞吉の語りや当時の記録から紡がれてきたこの歴史は、限りなく白虎隊のほんとうの姿に近いものを、より鮮明に映し出しているのではないでしょうか。
そして、ここでの記録から何度も何度も伝わってきたのは、当時そして後世の人々が白虎隊の少年たちを大切に葬り守ってきたということ。
会津戦争に敗れた会津の街は、新政府の支配下に入ります。荒廃した街で鶴ヶ城の解体さえ命じられる中、お墓に葬ることすら禁じられていたそう。新政府に歯向かい自刃した白虎隊の少年たちは、もちろん正式な手段でお墓に入ることを許されず、数ヶ月もの間飯盛山にそのままさらされていたそうです。それをあまりに気の毒に思った地元の住民や飯盛山の当主が目立たないようこっそり小さな山にして合葬したのですが、それも新政府に見つかってしまったとか。
また、彼らが自刃したのは墓地。今でもすぐ下にはお墓が広がっています。*1つまり飯盛山は当時私有地。白虎隊がこの地で命を落とし、その武士として勇敢な最期も明治の世では逆賊扱いされ、お墓すら十分に用意できなかったことを気の毒に思った当時の当主が、山を藩に献上したという記録も残っています。
飯盛山の当主はほかにも会津の人々のために山の一部を広場として開放し、地域をあげて白虎隊を逆賊とすまい、そして忘れまいと懸命に会津の地に残してきたそうです。
そして階段を登りきり、その広場へ。
亡くなった当初は十分な供養もできなかった隊士たちの魂は、いまは一人ずつ並んで眠っています。
ガイドさんによると、普通は身分に応じてお墓の並びにも序列がつくはずのところを、ここではいろは順に並べてあるそうです。
戒名ではなく、亡くなった当時の名前のままいろは順で並んだ隊士たちの墓石。手を合わせずにはいられません。
そして、ここに貞吉の名前はありません。
貞吉のお墓は、隊士たちの反対側、広場を右手に進んで自刃の地へ向かう細い道のそばにあります。
これは人から聞いた話ですが、「生き残ってしまった」貞吉のことを遺族はなかなか受け入れられず、また自刃が武士としてのけじめであったこともあり、貞吉は不遇なその後を送ったそうです。ここに貞吉のお墓ができたのもだいぶ後のことだったとか。(もともと貞吉が亡くなったのも昭和ですが)
今でこそ「語り部」「証人」として大切に語り継がれる存在になったものの、貞吉はどんな思いで故郷を離れ、どんな思いでその後を生きたのか、胸の奥がひりひりと焼けるような心地がしました。
貞吉のお墓を通りすぎると、一気に景色が開けて会津の街が見えてきます。案内を見ずとも、ここがその場所であることがわかります。
ここからはたしかに会津の街が一望できて、いまは綺麗な景色として映る広大な盆地が真っ赤に染まる光景は、それはそれはぞっとするものだったと思います。
この日は曇りでしたが、安西くんが30分かけて探した鶴ヶ城は1分もあれば見つかります(笑)
そこで声をかけてくれたガイドさんに15分ほど話を聞きました。
城から外堀までの距離、外堀の中の武家が城を守ろうと一斉に火を放ったこと、本物の景色を見ながら話を聞くと、背中に重い何かがのしかかっているような気分になります。写真じゃわからない。あの言葉にできない気持ちは、あの場にいないとわからない。
会津戦争でこの街はぜんぶ焼かれてしまったので、会津若松に古い建物は残っていないんだとか。その後長い時間を経て街がふたたび整備された頃、今度は日本の各地が空襲で焼かれるように。このとき会津は、その歴史から対象を外れたそうです。京都が狙われなかったのと同じ理由、紳士協定みたいなものだとガイドさんは話していました。
空襲で焼かれた大阪や名古屋は戦後の復興期に大きな道路が整備されて都市になったけど、会津はそのまま。だから会津若松の道路は昔のままで複雑なんだとも教えてくれました。焼かれたり焼かれなかったり、皮肉なものだなあ。
先ほどの展示史料に書かれていたことは、ガイドさんの口からも丁寧に解説していただきました。
彼らの家の石高はなかなかのもので、彼らは名家のエリートだったこと、そしてその生まれに恥じない優秀な少年ばかりだったこと。屋敷図を見せてもらいましたが、飯沼家の石高はその中でもトップクラスだったように記憶しています。
そんな聡明な武士であった彼らは、ここで城が燃えていると勘違いしたくらいで自刃したんじゃない、とガイドさんは何度も何度も語ってくれました。彼らは毎晩床に就く前に切腹の作法をさらっていたし、飯盛山でも協議を重ねた。会津を背負った武士として選んだ最期だったと。
こんなに熱心に話を聞く若い子が珍しかったのか、ガイドさんは他にも当時の会津の出身者だどれだけ優秀だったかなんていう話も語ってくれました。ウエストポーチから写真やら屋敷図やらを出してきてそのままくれました(笑)
私と入れ違いで団体の観光客が来たのですが、袴着たおねえさんにここが飯盛山で~す!とガイドされるよりは、地元のボランティアのおじちゃんにじっくり話を聞く方が断然おすすめ。
階段を登る手前、貞吉と悌次郎の案内板の奥には私設の史料館があります。横浜くんが閉館間際までいたのはたぶんここ。
運営しているのは貞吉とゆかりのある家らしく、館長さんは各地で講演も行っているようです。
二階に上がると、安西くんが涙したという白虎隊のビデオが。あらかじめフォロワさんから聞いてはいたのですが、自主制作のふっるいVHSアニメで、こ、これで泣いた、のか、、、と(笑)
下山して、本日の重要なミッションへ。そう、例のTシャツを手に入れるべく大久保商店へ。
なんだかお店でもファンがTシャツを買いに来ていることが知れているらしいと事前に聞いていたので、バレやしないかとおそるおそる店内へ。Tシャツを物色している体でさりげなーく売り場に近づくと、お店のおばちゃんがこれはうちだけでしか買えないのよ~と勧めてくれました。助かった。営業は他のみなさまに任せます。
ついでにさざえ堂にも。
よくお寺にある、砂袋踏んで回ったらお遍路したことになるアレと同じで簡易巡礼のための建物だとか。上って下りて建物内を3周したことになるそうですがまあよくわかりません。
ガイドさんの話にもあったように城下はぜんぶ焼かれてしまったので、現存する文化財はこのさざえ堂くらいしかないそうです。
鶴ヶ城
当時の鶴ヶ城は明治期に解体されたため、現在は再建され史料館兼展望台として観光地になっています。
とはいえ、お堀や石垣からは城としての面影が感じられます。石垣のところどころに開いた小さな穴は、会津戦争時に撃ち込まれた砲弾の跡だとか。
私が訪れた9月中旬の企画展示は蒲生氏郷。ガッモウッウッジッサットッ♪です。筋金入りの鍋クラの血が騒ぎます。
順路のしょっぱなから茶器や利休ゆかりの書状が展示されているあたりさすがはCall me利休七哲なだけありますね。メンバーには諸説ありますけどね。
ところで鶴ヶ城の歴代城主を順に追ってみると、蘆名→伊達→蒲生→加藤(嘉明)→保科(松平)となんとも鍋クラ得な顔ぶれが続きます。摺上原の戦いとか懐かしいですね。男士もなかなかに好きでした。
企画展を通り過ぎると、会津出身の著名人の紹介が続きます。もちろんここに自刃した隊士たちの名前も。
当時は役名もキャストの名前も半分くらいしか頭に入っていなかったので、公演HPと目の前のひとりひとりの紹介文を突き合わせて予習。ここに保鉄の名前がなかった理由については、このときはまだ知る由もありません。
展望台から見た飯盛山は周囲の山々に紛れてこぢんまりとしていて、あんな小さな場所からこの城を眺めていたんだな、と。
ところで復路にはこんな展示が
これは
うわああああああああ殿様がお上から賜った陣羽織だああああああああああああああああああああああああああああああ
(会津行きのそもそもの発端は八重の桜でした)(殿様担でした)
お土産屋さんにあった薄桜鬼ご当地クリアファイル(もちろん斎藤)がちょっとほしかったのはここだけの話です。
徳川家御廟
ここは著名な観光地ではありませんが、先述のとおり殿様担としてはご挨拶に伺わないわけにはいきません。
入口を探すのに一苦労したほどひっそりとした場所にあるこの御廟、幹線道路を入った路地を通ったところにある裏山がそれです。山全体が御廟なんだとか。
ちょっと嫌な予感がしますが、ここまできて引き返す選択肢はありません。登ります。(この1分後に石段の苔で滑って転んだ)
山全体が御廟というだけあって普通にハイキング。しかも雨降ってきて足元ゆるゆる。白いボトムス履いてきた己を呪います。
会津の松平家(旧保科)は九代(たしか)まで続いたので、各代の城主とその家族が仏式なり神式なりで祭られています。けっこうな量です。けっこうな段数です。雨脚は強まる一方です。
二代と四代(どこまでも記憶があいまい)は途中で分岐した御庭に家族と一緒に祭られていますが、ほかの代のお墓はてっぺんに並んでいました。そしてそれらよりも少しだけ外れたところには容保公のお墓が。一番高いところで静かに会津の街を見下ろしているようなお墓でした。
本当はゆっくりご挨拶したかったのですが、雨も本降りになりこのまま日が暮れて遭難しかねないので下山。天気がよくても片道10分以上は見積もっておいた方がいいです。あとヒールの靴は非推奨。
この日はこのまま市内のホテルへ。
ちなみに、この旅行でたまたま関東を離れた日に限ってりょースタに安西横浜がゲスト出演したのにはただただ悲しみの涙を流すほかありません。
二日目 南会津へ
会津若松市を出て南へ。朝一の目的地は大内宿です。
ここは名前のとおりかつての宿場町。当時の建物を保存してある珍しい場所です。
大内宿じたいは観光地としてにぎわっており(山間なのに4Gが入った)この日は韓国からの団体客も。ただ周りは山道で、その風景も含めて当時に近いのかなーと。
旅籠だったであろう当時の建物は、今は食事処やお土産屋さんに。どの家にも屋号がついています。
両脇には山から引いた水路が。どこのお店もラムネやらコーラやらをケースのまま水路に置いて冷やしています。
高台から見下ろした大内宿。ここも戦火の被害にあったそうで、本陣は現存していないんだとか。今ある本陣は再建されたもので、史料館になっています。
手前には鳥居があって、この道が神社に繋がっていることがわかります。
廃校になった小学校。今は駐車場になっているみたい。
塔のへつり
塔のような地層を楽しめる景勝地。本来は吊り橋で川を渡って中の洞窟にも入れるのですが、先日の豪雨(私が訪れたのはその2~3日後です)で橋の一部が流されて通行止めになっていました。流されたのはおそらく対岸の手すり。あんなところまで増水したのか…
ここ以外にも豪雨の影響をちらほら目にしました。那賀川は目に見えて増水していたし、往復の東北道で鬼怒川を渡ったときは今にも溢れそうでぞっとしました。それでも帰りに通ったときは幾分水が引いていました。
ここから会津を南下して、白河ICまで国道を走りました。ここも戦場になったのかな。
ところで白河の国道沿いに広がる田んぼには「除染中」ののぼりが。こんな内陸でも除染が行われていました。道路沿いに並ぶ黒い塊の数々を見て、ただただ「これをこれからどうするんだろ」という漠然とした疑問しか浮かびません。どうするんだろう。
蝦夷討伐しかり会津戦争しかり、そして現在に至るまで、古代から今まで何度も何度も中央の陰になってきたんだな、と。飯盛山の記念館の館長さんは、もし会津戦争の終結が遅れていたら、日本は東西で分割されていたかもしれない、と話していました。今ここで暮らす当たり前の陰に会津がある。このことにどう向き合うべきかは、私にはまだわかりません。
今回の収穫
屋敷図と鶴ヶ城の写真はガイドのおじさんがくれたもの。よーーく見てみると隊士含め知ってる名前がちらほら見当たります。会津の街は、白虎隊だけでなく大河も観ていた方にも楽しめると思います。
右端のお箸は鶴ヶ城再建50周年記念の品らしく、入場券のオマケでもらいました。葵の御紋入りだよ!
例のもの。
飯盛山や会津の街を歩いて歴史にふれて、一番引っかかったのは「飯盛山でのことを、舞台ではどう描くのか」ということ。飯盛山での展示からもわかるように、白虎隊の描かれ方は時に会津に伝わるものとは異なります。
会津で私が何度も感じたのは、彼らはただただかわいそうだと涙を流すために眠っているんじゃない、ということ。不遇な少年たちの悲劇といえば簡単ですが、そこをどう描くのかなあ、というのが観劇前ずっと気になっていました。
そんな心配がもはや杞憂であったことは、作品をご覧になった方ならおわかりですね。
もう一つ、安西くんが貞吉を演じることの意味に、ここでようやく気づきました。
二番隊を最初から最後まで知っているのは貞吉ひとりだけ、貞吉以外の人間には、飯盛山で命を落とした白虎隊のほんとうの姿を知ることはできません。
その最期に様々な描かれ方がある以上、貞吉の語りがそのまま作中での「真実」になります。作品の意図が貞吉にかかっている。そう考えたら、ストーリーテラーとしての貞吉を演じることがどれだけ難しいか、ここにきてずっしりと感じられたのでした。
幕が上がって舞台に立つ貞吉の役回りは、必ずしも私の予想どおりではありませんでした。でも、会津に足を運び、白虎隊の歴史と会津の人々の思いにふれた安西くんの演じる貞吉は、会津に眠る魂を強く強く届けてくれたと思っています。
観劇を終えたいま、改めて会津に行ってよかった、と心から思います。飯盛山から見た会津若松の景色、地元の人々の思い、街中にひっそりと眠る松平の殿様。行かなきゃわからなかった、行かなきゃ知らなかったことがたくさんありました。
そして、安西ブログではありませんが、白虎隊はたしかにあそこで生きていた、と、会津の街は教えてくれます。誇り高くあの時を生きた白き虎たちを、ぜひ会津に探してみてください。
さて、私をここまで突き動かした舞台が気になる方、絶賛ぶりを聞いてあの時観に行けばよかったと悔やむ方、朗報です。DVDが発売になりました。
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誇り高くあの時を生きた白き虎たちを、ぜひ会津に探してみてください。それから、映像で虎たちに会いに来てください。
*1:そこが彼らの幼いころからの遊び場でもあったので、街の状況を知るためにこの場を選んだのではないか、といわれています